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RRPの全体像とこれから

時間はいったん現在に

このブログを綴っている私のことを、簡単に自己紹介しておこうと思う。

私の名前は 五十嵐志郎(40)で、約10年ほど前に親から現在の物件を相続した2代目大家である。学校を卒業したあと外資系企業で、企業向けの事務機販売の営業職をしていた。営業成績は優秀という訳ではなかったがまったくダメという訳でもなく、自分なりに結構頑張っていたと思う。約10年間の営業を通して現在の基礎となる社会常識をこの会社で身につけた。

 思い出せば卒業を間近にして就職活動は難航を極めていた。当時はまだ、はがきで面接のエントリーをしていたが、100社ほどはがきを出し30社ほど面接を受けた。春頃から面接を開始し真夏を過ぎ初秋の頃にも、まだ1社も内定が出なかった。

この就職活動の時期は、自分自身のことを真剣に考えた苦しいながらも貴重な時期であったと思う。自分には何ができるのか?何が好きなのか?未熟ながらも何度も考え、自分の得意なこととして英語と機械というキーワードを見つけ出した。もともと英語は嫌いではなく、機械にも興味があったので外資系の事務機の会社に応募してみようと思いついた。

早速、新宿で開催されていた集団就職説明会で、事前に調べてあった外資系企業にエントリーした。エントリー後すぐに面接を受をうけ、その後筆記試験・2次面接をクリアすることができた。そして、なんとか最終の社長面接までこぎつくことができたのは12月中旬であった。

 

当時の日本社長はアジア系の方で、面接は紳士的な営業統括部長が仕切っていた。その時の面接内容は詳しく覚えていないが、営業部長の言った一言だけはなんとなく覚えている。

「たまには変わった人を取りましょうか。」

おそらくその一言で私はなんとか、この会社に採用してもらえることになった。

 学生の頃の私はとにかく平和ボケしていて、よく人から「お育ちがいいからね」と言われていた。当時の私はその意味すらわからずポジティブに捉えていた。何の不自由もなく、まったくの世間知らずで育ってきてしまった自分に対する皮肉も込めた言葉であったことは、今でこそ理解できるが、当時はまったくわからなかった。まったくお恥ずかしい限りである。

 営業がどんな仕事をするかイメージもないまま、研修を終えていきなり飛び込み営業をさせられたのは今でも忘れられない。名刺とカタログをもって1日に20社、月に400社くらいアポもなく訪問して相手の名刺をもらってくるというのがノルマだった。とにかくこの頃は必死で、つらいのか苦しいのかもわからないくらいの状況であった。毎日おそらく2万歩は歩いていたし、会社に帰宅する頃にのスーツは、冷や汗やら油汗やらが乾いて匂い立つほどであった。

 半年もして多少慣れたころには、新たに電話アポや売り上げノルマなどで部長に毎日怒鳴りつけられた。今でも繰り返し見る夢は、「月のノルマが達成できていない」「会社に遅刻する」など当時の恐怖のイメージだ。

そんな今ではブラック企業と言われかねないような会社になぜ10年も勤務できたのか?

幸運にも会社の先輩も同期もとにかく良い人が多かったのが幸運だった。週末は会社の人と集まってテニスをしたりスキーに行ったり、生活のほぼすべての時間を会社の人と過ごすほど仲がよかったし、なにより楽しかった。

 

そしてある程度顧客もでき仕事の進め方もわかるようになると、仕事事態も楽しく思えた。

 

 

 社会のことがまったくわかっていなかった平和ボケの人間が社会とはどういうものかを理解することができたのも、このサラリーマン経験があったからだと思う。

 

社会で生きていく為には「胆力」というものが必要で、いくら知識や経験があっても「胆力」がなければ事を成すことはできないと思う。何がなんでも形にするという「胆力」が不足していれば、信頼してもらうことはできないのである。今改めてそのことを強く思う。

 

「なんとしもやる」という腹のくくりかたをできるかどうかが最後は重要ということだ。

いつも敬語ばかりでなく、必要な時には言葉を荒くすることも必要なのだ。

 

 

 さて自己紹介はこのくらいにして、現在のRRPの状況について綴って見たいと思う。

 

RRPはプロジェクトの開始から2年以上を経過して、計画していたほぼすべてのお部屋の改修工事を終えた。長かった工事も終わりを迎えて2年前に見えていた景色ではない、新たな景色が見えている。しかしすべてはこれからだと思っている。

 まだ手探りだったプロジェクト開始前、いったいどのようなコンセプトで進めていくべきなのか何度も何度も打ち合わせをした。街のことであったり、コミュニティのことであったり、建物のことであったり、雑談レベルの会話から具体的な話までを何度も話し合った。

話し合いを繰り返すことで徐々にプロジェクトの骨格が固まっていったと思う。

最大の難関であった資金計画も、協力企業の努力でなんとかある程度調達することができた。

資金等の目処がついたのは、RRPの工事がスタートする半年前くらいだった。

RRPは、開始当初まだ固まったイメージを持つことができなかったが、工事を進めていくうちにプロジェクト全体のイメージが固まっていったように思う。

工事を進めるということはお金を使うことである。

お金を使う度にプロジェクトがどんどん自分ごとに変化していった。

そして反省点を振り返るたびに私は成長していったように感じる。

プロジェクトが終盤を迎える頃には、私は以前の私ではなくなっていて 2年前よりも高い視座でプロジェクトを見るように変化していた。

プロジェクトを通して、私は、本当の意味で大家になったのだ。

そして本当の意味で責任を背負ったのだ。

プロジェクトに関わった人の中で、これは私にしかわからない感覚もしれない。

しかしこの感覚は間違ってはいないと強く思う。

ただ、最初からひとつ変わらないことは

賃貸住宅は住み手が第一であるべきということ。RRPで暮らす人たちが少しでも快適と思えるような空間を提供することだ。RRPに関わるメンバーは全員このコンセプトについて理解していないといけない。

RRPの途中経過は、また次回のブログに綴ろうと思う。

[ この物語はフィクションです ]